※完全なネタバレです。ご注意ください。
※なお、私が関わらせていただいたのはSMバーでのシーンのみであり、他の部分は台本すら見ていません。つまり、完全に一視聴者としての考察(回答ではなくあくまで考察)であることをご理解ください。
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観終わった感想の第一としては「誰も悪者を作らず、よくこのバランスで作りあげられたな」でした。
ここから順を追ってお話していきますが、その前に。
SNSを見ていて、特定の宗教だと決めつけている方々を見掛けますが、これはありません。
宗教にそこまで詳しくない私から見ても、少なくとも2~3以上の団体を掛け合わせたものだと分かります。
様々な方に取材をし、特定のどこにも当てはまらない(逆に言えば、どこにも当てはまる)、架空の宗教を作ったということを、制作側からも聞いています。
これは、このドラマが、特定の宗教を弾圧するために作成されたものではなく(これは、冒頭にある“誰も悪者を作らない”にも共通しています)、それらで苦しんでいる方々を理解して貰うために作られたドラマであるためです。
これを、「ヌルい」と感じる方もいらっしゃるようですが、多くの2世(3世)及び元2世(3世)にとって、自分が所属している(していた)宗教というのは、“家族に近いものである”ということを忘れてはいけません。
もちろん、“家族に近い”だけではなく、自分の実際の家族がまだ所属しているのだということもそうです。
そして、ご本人がどれだけ憎しみを込めて話していたとしても、それは自分の家族を非難しているに近い感覚なので、「自分が言う分には構わないが、他人には言われたくない」という感情が働く…
つまりは、特定の悪者を作ることによって、却って被害者のトラウマを抉ってしまうリスクを避けたのだと推察しています。
という前提があるものとして、以下の文章をお読みいただければ幸いです(前提長いよ(笑))。
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ーstoryー
ドラマの展開を無視して、時系列順に進めていきます。
まずは、1世にあたる女性が会社で何も上手くいかず途方にくれているところ、ふと立ち寄ったたこ焼き屋の主人と知り合い、何故かそのまま結婚してしまうーーというところから物語は始まります。
【考察】
これを、簡単過ぎてリアリティーがないと仰る方がいましたが、その方は、社会や家庭に傷付き、家にも会社にも、どこにも自分の居場所がないと感じている人間がいかに弱いかをご理解なさっていないのかな。と感じました。
たまたま立ち寄ったたこ焼き屋の主人に「ここに居れば?」と言われただけで救われた気になる。
居場所を提供された気になる。
多くの、居場所を見つけられない人たちを見てきた私には、逆にリアリティーを持って感じられました。
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ーstoryー
主人は、徹底的に人は良いが、人が良すぎて1000万という、一般人にとっては莫大な借金を抱えていた。
そこから二人で懸命にたこ焼き屋を頑張るものの、そんなものでは中々借金が減ることはない。
また、子供も出来、食うや食わずの状態に陥るも、主人はとても良い人で真面目に頑張るから、文句も言えない。
更には、その状態で二人目の子供を身籠ってしまい、いよいよ女性(ここからは母親と書きます)は切羽詰まってしまう。
そんな折り、お腹を空かせた長女を連れて歩いていると、公園で何かの炊き出しが行われている場面に出くわす。
これが、その後の運命を決めてしまう、ある(架空の)宗教団体が行っていた炊き出しであった。
そしてその炊き出し(カレーライス)を配っていたのが、母親のかつての同級生であり、その同級生に誘われるまま、母親はその流れで入信してしまう。
【考察】
この場面を「母親が働いていないのが悪い」「怪しい団体だと気付かないのはおかしい」と、仰る方々がいましたが、まず、ドラマの冒頭で、母親がまともに働けない人であることは明白に描かれていました。
また、「生活保護」「自己破産」を言われていた方々も多く見受けられましたが、その制度を受けることが、手続き上どれだけ面倒なものか、どれだけ困難なものかを理解されてないのかな? と思うと同時に、私たちですら困難だと思えることを、普通に仕事をすることすら出来ない人に「困ってるんだったらやれ」と命じることの矛盾も理解して欲しいと感じます。
次に、本当に追い詰められた人が、(溺れる人にとっての)水面に浮かぶ藁の一本一本を全てを疑って掛かれるのなら、世の中から詐欺など無くなっているだろうということも忘れてはいけません。
※宗教=詐欺という意味ではありません。
それくらい困難であるという例として使用しただけです。
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ーstoryー
時は過ぎ、長女は高校生、次女は中学生になっていた。
長女は学校で、揶揄を込めて「おいのりさん」と呼ばれ、クラスに馴染めていない。
それは、母親が近所で積極的に布教活動を行っているからであり(当然、クラスメイトの家にも訪問している)、また、長女自身も同級生に対し、「神様。彼らをお赦しください。彼らは自分たちが何をしているかを分かっていないのです」と、言われた方からすれば、完全に上から目線であるとしか捉えられないことを言ったりしていたことも原因の大きな一つであると考えられる。
また、世俗の流行歌やドラマ、映画などは全てサタンに毒されたものであり、触れてはいけないとされていたことも、長女を学校内で孤立させていた要因の一つだと思われる。
【考察】
これらの描写は決して大袈裟ではなく、往々にしてよくある情景だそうです。
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ーstoryー
(少し飛ばして)そのような生活を送っていた長女は、修学旅行が日曜日のミサと重なるため欠席を余儀なくされ、そのことで、今まで(文字通り)触らぬ神に…状態だった担任の教師が母親の説得に向かうも自爆。
結果は母親、教師、長女と、全員が傷付くという結果に。
また、同級生であり、教団の説教師の息子である男子との淡い出来事なども重なり、長女は更に傷付き、不安定になっていく。
さらに、このタイミングで今まで一人で家族を支えてきた非信者であるが理解者でもある父親が亡くなってしまう。
そして、そのおり、家族で最後を看取ることをせず、教団に行って祈ろうとする母親と激しく衝突し、長女はついに家を出てしまう。
【考察】
最後を看取ることよりも教会で祈ることを優先するというのは、割りとよくあることだそうで、彼らからすれば、「祈りなどどこでも唱えられる」などという正論は意味がありません。
それが彼らにとっての常識であり、常識というのは、所属団体(国、地域、仕事、学校など)ごとに全く異なるというを忘れてはいけません。
また、修学旅行云々に関して言えば、母親、教師の、どちらも善意から出た行動であることも忘れてはいけません。
ただ、善意から出た行動が全て正しいとは限らないということも、世の中には満ち溢れているということです。
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ーstoryー
家を出た長女は当然行く宛もなく、お金もないことから道端に踞って動けなくなっていた。
そこで、明らかに怪しげな男性に声を掛けられるままついていき、そのまま身体を開かれ、その足で知り合いの飲み屋に紹介され、そこで働き始める。
【考察】
これも、実は似たようなケースは全く珍しくありません。
要は、幼い頃から大人に決められた通りに生きてきた結果、何も自分で決められない人間に育ってしまったという例です。
“断れない”
(宗教など関係なく)心当たりのある方は、是非お気を付けください。
また、この時の描写は、SNS等で散見した「最初に母親が騙されたのが悪い」という意見に対する答えにもなっているんだと思います。
追い詰められた母親は宗教に救いを求め、同じように追い詰められた長女は全く知らない男性についていくという行程を歩んでいます。
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ーstoryー
その後長女は、自分が働いている店の客に連れて行かれたSMバーで緊縛ショーを観ることになり、自分でも何か理解出来ないまま、何故かこれに惹かれてしまう。
そして、一度は帰ったものの、閉店後に一人で緊縛師に会いに戻る。
「何? 縛られたいの?」
「縛られた方が良いですか?」
「それは君が決めること。無理やりやるもんじゃないから」
「…………」
立ち去ろうとする緊縛師に
「縛ってください!」
「私は赦されないことをしました」
「僕が赦してあげるから」
【考察】
このシーンを、「急に緊縛など、シチュエーションに無理がある」と仰る方々がいましたが、実は私の(つまり同時に、取材された、ある2世の方の)実体験を元にしたシーンです(細かいシチュエーションは大きく違います。
本当の実体験が聞きたい方は、直接聞きに来てください(笑))。
このシーンのポイントは、長女が「縛られた方が良いですか?」と、他人に自分の行動の是非を委ねてしまうことと、縛られることで、赦しを得られたと感じてしまうことです。
これは、一つは、長年培われた、大人の言うことを聞くことが正解であるとされてきた習慣からきた行動理念であり、もう一つは、行動や思考を制限される(縛られる)ことで安心を得ると共に、罰せられることで赦されたと感じたことであると思われます。
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ーstoryー
そこから長女はそのSMバーのショーモデルとして活躍していく。
【考察】
このシーンを、苦悩から離れることが出来たのに、新たなる苦悩に絡め取られたと解釈してらっしゃる方が多数見受けられましたが、長女はSMによって、やっと自分の意思で居場所を確保出来た=救われたと感じていたのだということだけは、是非ともご理解いただきたい(笑)
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ーstoryー
一方、父親亡き後、母親は次女に手伝って貰いながらたこ焼き屋を営んでいた。
そこで、次女は教団仲間の男子から長女が撮された緊縛ショーのフライヤー(チラシ)を渡される。
次女はそのフライヤーを母親に見せないように隠し、一人、姉に会いにいく。
そこで、スポットライトに照らされたステージで雁字搦めに縛られている自分の姉の姿を見、一度はその場を飛び出したものの、決意して姉に直接会いにいく。
【考察】
これは、一つ前の考察とは矛盾していますが、やはり一つのアンチテーゼであると考えます。
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ーstoryー
妹に説得された長女は、紆余曲折の末に、漸く家に帰る決心をする。
ところが、家に帰った長女に対し、母親は、教団から離れた者=サタンに取り込まれた者は(例え家族であっても)、赤の他人どころか敵である。という意味の言葉を吐き、長女に出て行くように宣言する。
そこで初めて、今まで一切母親に逆らって来なかった次女が本音を話し出す。
「私だって神様がいるかどうかなんて分からない。けど、神様を信じなくちゃ、家族がバラバラになってしまうから信じていただけ。どうせバラバラになってしまうのなら、信じてたって意味がない!」
ショックを受ける母親に長女は自分の言葉を告げる。
「神様を信じていても、信じていなくても、そんなことに関係なく愛して欲しかった」
ここで漸く、母親は自分が犯してきた間違いに気付く。
【考察】
長女の最後のセリフは宗教など関係なく、多くの人々に突き刺さるのではないでしょうか?
「勉強出来なくても愛して欲しかった」
「運動出来なくても愛して欲しかった」
「良い子でなくても愛して欲しかった」
この家族が、これからどうなっていくのかは誰にも分からないし、ここからが本当の苦難の始まりなのかもしれない。
という終わり方。
そして長女の「これは私のお話。次はあなたのお話を聞かせて」というナレーションで締められていた通り、宗教一家と一口に言っても、一家族一家族、みんな違うんだということ。
もちろん、宗教など関係なく、様々な理由で苦しんでいる家族もいるということ。
ドラマよりも、もっと悲痛な家族もいるだろうし、幸せに暮らしている家族もいる。
ドラマに話を戻すと、今社会で問題になっている半強制的な献金問題や強引な勧誘問題、厳し過ぎる体罰など、何故この物語で扱わなかったのかは冒頭で触れた通り。
それよりも、往々にして「やめれば良いだけ」と言われてしまうことへの一つの答えを示すことで、世の不理解を少しでも無くしていくことと、ただ愛して欲しかったんだということを主題としているんだと感じました。
蛇足になりますが、自分が悪いことをすればもちろんのこと、神様を信じられないというだけで、自分だけではなく、家族までもが地獄へ落ちてしまうと恐怖を植え付けられて育った方々の気持ちは、地獄という概念すら理解出来ない私たちには絶対に想像も出来ないんだということを知っておかなければいけないんだと思います。
ですが、だからこそ、理解など出来ないからこそ、彼らの感覚を否定するのではなく、そのままの状態で受け入れてあげることこそが大切なんだと思います。
これも前半部で触れたことですが、国や宗教、生まれた地域や年代が違っただけで、それぞれの常識というものは変わります。
相手の持つ常識を否定するのではなく、こちらの常識を正当化するのではなく、お互いの常識を擦り合わせ、譲り合うことで、その人のそのままを受け入れてあげることが出来るのではないでしょうか?
もちろん簡単ではありません。
ですが、時間を掛けて、双方努力を惜しまなければ、きっと今よりはマシな未来が築けるのではないかと考えているのは、決して私だけではないと思っています。
最後に、これだけ難しい問題を、基本的には誰も傷付けることなく描ききった番組制作の方々。
その難しい感情を含めて、見事演じきった俳優陣には、とてつもない感動をいただきました。
そして、思い出すだけで胸が苦しくなる想いを、今でも苦しんでいる多くの方々のためになるならと、血を吐くような思いでお話くださった沢山の元2世(3世)の方々には、大きな感謝と共に、一日でも早く本当に救われる日が来ることを願うばかりです。
また、このような素晴らしい作品の末端に加えていただいたことは、私にとって一生の宝物です。
本当にありがとうございました。
2023.11.8
堂山鉄心